意味は、あとから生まれるー10年前の3月11日。撮り続けた仙台の記録とネットを介した繋がり
私は、2011年の東日本大震災がきっかけで発足したNPO団体の理事として、インターネットを活用した情報発信活動や、政治や社会課題に関する対話の機会づくりをしています。
幼少期は青森と埼玉で育ち、18歳で仙台の大学に進学してからは、ずっと仙台で暮らしています。
大学を卒業した同期や先輩方が、就職を期にほとんど東北を離れてしまうことに違和感をもち、敢えて地元の会社を見つけ就職したことが、今思えば小さな転機だったのかもしれません。
当時27歳、2011年3月11日に仙台で被災した私は、その後もこのまちで活動し続ける人生を選びました。
そんな私が、NPOという形で、情報発信、いわゆる「メディア」の活動に関わるようになったのは、やはり震災後の自分の行動による気付きがきっかけでした。
写真を撮り続けた
2011年3月11日14時46分、東日本大震災の発災の瞬間、私は当時勤めていた仙台市内のオフィスにいました。
これまで体験したことがないような揺れの大きさで、いつまでも収まらない。このまま地面に亀裂が入って、すべてが飲み込まれてしまうんじゃないかと感じるほどの、激しい揺れでした。
揺れが収まり、冷静さを取り戻した頃には、床に書類やモノが散乱し、当然電気もつかず業務になりません。
そのとき、私は仕事用に持ってきていた私物の一眼レフカメラを手に取り、「ちょっとまちの様子を見てきます」と言って、外に飛び出しました。
社長からすれば、職場に残って片付けでもしてほしかったでしょうに(笑)、私は何故か外に出る選択をしたのです。
漠然と「何か歴史的な災害が起きている、何か記録を残しておかなければ」という想いがあったことは覚えています。事実、まちは騒然としていました。
(しかし誤解のないように書いておくと、この後に三陸沿岸部を襲った大津波のことは、私はこの時点ではまったく知りませんでした。2021年の今、皆さんが思い起こす「東日本大震災」の印象の多くは、津波被害や原発事故だと思いますが、当時電気を失った私たちがそれを知るすべはありませんでした)
▲オフィスビルから指定避難所へ歩く人々。地震発生から15分後
▲ビルから剥がれ落ちたコンクリート片が直撃して粉々になるバス停
翌日も、さらに仙台市内のいろんな場所の様子を撮影しようと、カメラを持って自転車で走り回りました。幸い携帯の電波は時折つながって、SNSにアクセスすることができたので、友人のもとを訪ねたりしながら、いろんな写真を撮りました。
当時、TwitterやFacebook、mixiなどのSNSがあったことで、友人知人の無事を確認できたり、知らない誰かの発信で生活に必要な情報を得たり、随分と救われたと思います。
それにしても、今にして思えば、職場の片付けをするとか、避難所の運営のお手伝いをするとか、そのときやれることはいくらでもあったはずです。
でも何故か私は、延々と写真を撮っていました。携帯とカメラの電池残量だけを気にしながら。
▲炊き出しに行列をつくる人々
▲屋外イベントの発電機に並んで、携帯電話を充電する人々
震災3日目の朝
土砂崩れが起きたらしいという話を聞いた私は、早朝から撮影に向かいました。仙台駅からもそう遠くない川沿い、片道一車線の道路に、土砂というより建物が崩れ落ち、通行止めになっていました。
見た瞬間、これは写真に収めなければと思いました。
▲崩れて道を塞ぐ建物。当時はなんの建物か知らなかった
しかしカメラを構えながら、一方で「なんで自分はこんなことをしているんだろう」というもやもやした気持ちにも包まれました。
みんな被災して、この地域にも住民はいるのに、よそ者がのこのこやってきて写真を撮っている。今私が撮影している建物はめちゃめちゃに壊れていて、もしかしたら中に人が居て誰かが亡くなっているかもしれない。ジャーナリストでもないし政治家でもない私が、野次馬感覚で写真を撮りに来て、自己満足で、それが果たして何になるのだろうか。
そんなことを考えていたら、近隣の住民と思われる男性が近づいてきました。
私はその瞬間、(怒られる!)と思い、カメラを構えていた手を引っ込め、道路脇に避けようとしました。
すると、男性は私に話しかけてきました。
「記録に残しているのか」
私は咄嗟に、「はい、すいません」と応えました。
「誰かがやらなきゃな。あとになってから、意味があるよ」
そう私に言うと、男性は崩れた建物の、踏みしめられて通れるようになった部分を乗り越えて、帰っていきました。
記録を公開する
その後職場に顔を出すと、なんとビルが通電して、パソコンも使えるようになっていました。(まだ震災から2日しか経っていないのに!)
私は早速携帯電話とカメラを充電し、ここぞとばかりに職場のパソコンで勝手に自身のブログを開き、震災当日から3日間撮りためてきた写真をアップロードしていきました。
公開した写真はTwitterを通じて拡散し、1日1万件という、個人のブログの許容量を超えるアクセス数ですぐにパンクしてしまいました。
それからも私は写真を撮り続けました。
4日目以降は平日だったにも関わらず、職場の復旧作業の合間を縫っては、いろんな場所を記録しておこうと、自転車で仙台市内中を走り回り、すぐにブログを更新しました。
その後、何度か沿岸部の方まで足を運び、津波の生々しい爪痕を見るに至って、「ここから先は、マスメディアが記録する領域だろう」と判断したことを覚えています。
▲これ以上先に、私が足を踏み入れるべきではない
情報が、誰かのもとに届く
ある日、ブログに知らない方からのコメントが届きます。
(※ブログは現存しておらず、文面は私の記憶に基づくため正確ではありません)
「夫が宮城に単身赴任していて、娘がテレビで流れてくる津波の映像を見ては不安で泣いていました。このブログの写真を見て、比較的落ち着いた仙台市内の様子を知ることができ、安心できました」
このコメントを読んだとき、私の中でも未だ答えが出ていなかった「なんで自分はこんなことをしているのか」というもやもやした問いが、一瞬鮮やかな像を結んだように感じました。
何かの写真を撮るという行為、その瞬間には、まだなんの意味も生まれていないのかもしれません。
でも、その写真を情報として公開し、誰かの元に届いたときに、確かに意味は生まれました。
これこそ、「メディア」です。
▲商店街のオブジェが横倒しになったショッキングな写真からも、その向こうにいる冷静な市民の様子を窺うことができる
そしてもう一つ、貴重な経験をしました。
時間が一気に飛びますが、震災からおよそ半年後のことです。
私がブログにアップしていた写真を見て声をかけてくれる方が現れ、震災時の写真をアーカイブする取り組みに協力しました。さらにそのことがきっかけで、トークイベントのゲストとして招かれる機会がありました。
そこで、あの「崩れた建物」の所有者の方々とお会いしたのです。
その建物は、旅館でした。
当時、午後の早い時間でしたがお客さんが一人いて、地震の直後みんなで避難して、人的な被害はなかったのだという話を伺いました。
しかし、当時はあまりに大変な状況で、当然写真など撮る余裕もなかった。
よかったら、この(私が撮影した崩れた建物の)写真をいただけないか、とお願いされたのです。
もちろん、断る理由はありませんでした。
一人一人が、情報を記録し、発信することの意味
私のブログにコメントをくれた女性は、震災の甚大な被害を訴えるマスメディアの情報だけでなく、私という一個人の発信する情報にたどり着いたことで、安心を得ることができたと言います。
一方で私も、当時SNSを通じて得られる様々な情報に救われていました。
そして、ブログにコメントをしてくださった女性の言葉にも救われました。
その後、私の発信した情報を改めて評価してくれる方々が現れ、様々な縁と偶然が重なって、届くべき人に届きました。
一人一人の伝える情報で、他の誰かが幸せになる。これが、インターネットによって一人一人の情報発信が当たり前になった時代のたすけあいの形なのだと、私は信じています。
インターネットが普及していくにつれ、様々な弊害も生まれてきています。ここ数年はむしろインターネットの害、一人一人が使うことの難しさのほうが目立ってきているようにも感じられますが、それでも私たちの団体はその「新しいメディア」としての可能性を信じて模索を続けていきます。
そしてこれからの時代に必要なのは、様々な立場の人たちが「対話」できる社会をどのようにつくっていくか、ということではないでしょうか。
私たちのNPOは、今そういった観点からの活動も増やしています。機会があれば、どこかでお伝えしたいと思います。
- Writer漆田義孝1983年生まれ。馴染みの居酒屋でふと「場づくりもメディアだ」と気づき、政治について気軽に話せるような場づくりなどを仙台で企画しています。NPO法人メディアージ常務理事。Twitter: @tondeke