2021.09.27

もしもインタビュー こくみん共済 coop 篇 前編

渋谷区代々木に本部を置くこくみん共済 coop (全国労働者共済生活協同組合連合会)は、たすけあいの生協として1957年9月に誕生し、共済事業を通じて多くの方々の暮らしを支えています。「共済」という「みんなでたすけあうことで、誰かの万一に備える」という仕組みについて、こくみん共済 coop の考える「防災・減災」について、髙橋忠雄 代表理事 専務理事にお話を伺いました。

※取材用に撮影時のみマスクを外しております。)

過去から受け継がれてきた想いが生んだ

「もしもプロジェクト渋谷」

(もしも)もしもプロジェクトを始めた経緯を教えてください。

(髙橋さん)2017年にこくみん共済 coop (当時の全労済)は創立60周年を迎えました。この60周年を機に、ブランド刷新を含めた新しい全労済づくりに取り組んだのですが、その柱を「共済を通じた社会課題の解決」としました。理念である『みんなでたすけあい 豊かで安心できる社会づくり』を達成するためにも不可欠なことだからです。我々の事業における主力商品は火災共済ですが、この共済はこくみん共済 coop のルーツでもあります。60数年前は長屋などの木造住宅が中心だったこともあり、ひとたび火事が起きると、どんどん延焼し、多くの住まいが被害にあいました。戦後の混乱期ですから、そうなると生活再建もままならない。そんな時代から、みんなでたすけあっていくという火災共済事業を行なってきたのがこくみん共済 coop (前身の全労済)です。その後、火災から自然災害が多発する時代となり、自然災害共済を開始しました。自然災害共済を通じて、困っている方へ一刻も早く共済金をお渡しするとともに、全ての被災者に向き合っていくという活動を続けています。昨年(2020年)で阪神淡路大震災から25年、今年(2021年)東日本大震災から10年、熊本地震から5年と、大きな災害から節目の年となりました。このタイミングで、私たちに何ができるのかを考え、立ち上げたのが「これからの防災・減災プロジェクト」です。共済を通じた経済的な備えだけでなく、災害による被害の抑制、災害発生後の速やかな生活再建、それを公助・共助・自助の枠組みで、組合員・生活者の基盤を守っていく活動としてはじめました。その取り組みのひとつが「もしもプロジェクト渋谷」です。

 

(もしも)でも、どうして「渋谷」からだったのでしょうか?

(髙橋さん)こくみん共済 coop の本部会館は1988年より渋谷区にあります。

私は2012年の8月から5年間、仙台で北海道・東北エリアの担当役員をしていました。復興支援などで被災者の方々と関係を持たせていただいたので、地域の方々と触れ合うことの大切さを身に染みて感じていました。ところが、本部のある渋谷区代々木に戻ってきてから、地域のある会合に参加したときに、こういう言葉をかけられました。「私たちにとって、こくみん共済 coop さんは、ホールを含めて、このエリアのランドマークなんです。ようやく来ていただけましたね」と。この地に移ってきて30年以上も経つのに、「初めて地域の場に来てくれましたね」と言われるなんて。地元に愛されない事業体はダメだ、これまでも地域との関わりは少なからずありましたが、これからは地元にも一層貢献していこうと考えるようになりました。そこから町内会のみなさんとの会合や地元のお祭りなどにも積極的に関わりを持つようになりました。その延長線上で、渋谷の地で何ができるのかを考えるようになり、私たちのルーツである災害との向き合い、更に「これからの防災・減災プロジェクト」のスタートを通じて、「渋谷にもし大地震が起きたらどうするんだ」という大きな課題に関わっていこうとなったんです。この地元との関係づくり、災害との向き合い、これからの新しい防災・減災を進めていくという取り組みの3つの要素を重ねあわせて、「もしもプロジェクト渋谷」の展開となりました。

 

こくみん共済 coop に息づく

「たすけあいの精神」

(もしも)こくみん共済 coop の災害との向き合い方について、エピソードをお聞かせください。

(髙橋さん)この災害との向き合いということを語る上で欠かすことができない3つの大きな出来事があります。

一つ目は、1955年の創業当時のエピソードです。私たちの火災共済事業は、1954年に大阪でスタートしました。その翌年に、新潟でも事業を開始したのですが、事業開始からわずか半年後に戦後最大の火事が新潟で発生してしました。

その日は、風が強く、また木造住宅が多かったため、大きく燃え広がってしまいました。事業開始から半年なので、お預りした掛金よりも、実際にお支払いしなければならない共済金の方がはるかに大きい金額になってしまった。普通だったら債務超過に陥り、倒産となってしまうわけです。しかし、当時の新潟の職員の方々はこういう言葉を残しています。「借金は努力すればいつかは返せる。しかし、信用を失ってしまったら二度と取り戻すことはできない」と。この言葉の通り、大きな借金をしながら加入者に全ての共済金をお支払いしたのです。これ以降、全国各地へ、働く人のたすけあいである「共済」が広がっていきました。

 

二つ目は1995年の阪神淡路大震災のエピソードです。戦後最大の都市型の大震災だったのですが、火災共済では、地震による被害は支払いの対象にならなかったのです。他の損害保険会社の火災保険も同様に支払いの対象になりませんでした。対象になるのは、地震保険だけ。しかし、当時の兵庫県の地震保険加入率はわずか4.6%だったため、95%以上の世帯に保障がなかったんです。ところが、私たちの火災共済には、お見舞金をお支払いする仕組みがあった。困った人がいた時には地震であっても最低限の支援をしようという仕組みです。その時のお見舞金基金の原資は46億円でした。しかし、被災者は多く、これだけでは十分ではありませんから、最大限努力してお支払いしようと支払い限度を変更し、トータル166億円余りをお見舞金としてお支払いしました。実に基金の上限額の約4倍に上ります。こういう災害が起きた後に、支払い限度を変えて余計に支払うということを、まず普通はしないと思います。しかし、「そこに困っている方がいらっしゃる」ならできることはやろう、という姿勢を貫くというのが当会らしさなのかもしれません。

一方で、保険や共済だけでは、地震からの生活再建が難しいのも実状です。そこで、国による保障の仕組みを作れないかと考えました。通常、国は個人の私有財産が損なわれた時に、それを補うために国のお金を出すことはしません。個人の私有財産はあくまで個人のものですから。それを突破するために、兵庫県や同じ協同組合の仲間である日本生協連、労働組合のナショナルセンターである連合、経済団体の日経連などに呼びかけ、2,500万人もの署名を集めました。成人の4人に1人くらいの規模です。この署名活動には、全国の役職員も総動員で取り組みました。それを政府に国民の切実なる声として提出、国による保障の仕組みを作ってほしいと訴えました。最終的には、議員立法という形で法律化されましたが、これが今日も続いている被災者生活再建支援法です。最初は最高100万までの支援金でしたが、その後何回か改正され、今では最高300万円まで国による保障を受けられるようになっています。これまでに29.4万世帯に対し、5,207億円が支給され、生活再建に役立てられています。

まず、私たち自身でできることを最大限努力する。それだけでは足りないので、国を動かすことにチャレンジし、新しい保障の仕組みを作ったというエピソードです。

 

三つ目は2011年の東日本大震災です。ご存知の通り、東北から関東を中心に広域にわたり甚大な被害をもたらしました。津波や液状化による被害だけでなく、原発事故による立ち入り制限区域内の人々の強制避難などもありました。加入者のみなさんも様々な地に避難しました。特に、原発の近隣住民の人とは連絡も取れない、郵便を送ったり、電話をしてもつながらない状態でした。そこで、原発避難区域のご契約3,312件に対し、その全ての人と連絡が取れ、顔の見えている状態にしよう、最後の一人までちゃんとお支払いしようと活動しました

しかし、発災から4年経っても依然として612件のご契約者とは連絡が取れないままでした。一時は難しいのではないかとも思いました。連絡が取れた人の中には「来てほしくない」「連絡もしてほしくない」という人もいたからです。周りの人たちに、自分たちが原子力発電所近辺から避難してきたと知られたくないという理由でした。しかし、そういった方々の心情もお察ししながら、最後までお支払いしようと全員で取り組みました。通常、保険や共済は、請求主義といって、加入者が請求してこられてはじめてお支払いするという対応をとります。ですが、私たちはこちらから出向いてお支払いをするというアプローチをしました。最終的には6年たった2017年に神奈川県藤沢市に避難されている方へお支払いをしました。金額は24万円だったと記憶しています。もう、最後は意地になってましたね。やり遂げたいと。全ては組合員のために。人々の生活を支えているんだという自負が我々を動かしてきたというエピソードです。

 

(もしも)保険や共済って、審査が厳しくてなかなか支払われない、といったイメージを持たれる方も多いのかと思うのですが、加入者や被災者の方々を最優先に動かれているこくみん共済 coop さんがすごく印象的なエピソードでした。「たすけあいの輪をむすぶ」の言葉の通り、人の想いをつないできた組織なんだなと改めて感じました。

(髙橋さん)そうですね、よく「保険金が下りる」っていうじゃないですか。それって加入者が下で、事業者が上でみたいなイメージですよね。そうではなくて、私たちはたすけあいの運動をしているので、「何かあった時にはお互い様」なんです。加入している一人一人も、事業体である私たちも横の関係であって、下りてくるとかそういうイメージではないんです。お支払いするというのは言葉として使いますが、ご契約をいただいている方にお届けをするんです。我々は最後までお届けをする責任があるんです。

東日本大震災の時、こんなエピソードもありました。自然災害共済には、傷害費用共済金という保障がついています。自然災害で家が壊れた時に家の中で亡くなってしまった方がいらっしゃった場合、亡くなられた方の共済金をお支払いしようという仕組みです。ところが、阪神淡路大震災の経験をもとに作られた仕組みだったため、家の中でお亡くなりになるケースしか想定していなかったんです。東日本大震災の津波の被害では、家ごと流されたケースが多く、お亡くなりになった方がどこでお亡くなりになったかわかりませんでした。家の中でお亡くなりになったのか、家の外でお亡くなりになったのか、証明できるものがなかったわけです。そこで私たちは、証明できないからには、加入者側の申告を受け止めようと、申告に沿って支払うことを基本としました。組合員の側の立場にたってみれば当然のことだと考えたのです。当然必要な調査は行いましたが、我々はどうすればお支払いできるかを考える、というように教育されていて、それがDNAのようになっているんです。その原点が「たすけあいの精神」なんです。(後編へ続く)


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    お問合せ: info@moshimo-project.jp